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「丸岡かるた」  Copyright by Morihiro Matsumoto/ 2005,7,25

それぞれの詩句をクリックすると解説欄に飛びます。解説の左下の一覧をクリックすると「丸岡かるた」一覧に戻ります

 詩  句

 詠 者

 詩  句

 詠 者

有馬家歴代墓所の高岳寺

高嶋龍也

野重治をしのぶ くちなし忌

大家宏之

石がわら日本最古の丸岡城

谷口立美
北恭子

新田義貞公を祀る称念寺

辻 尚子

美しい自然の中の龍ケ鼻ダム

新木幸史

沼地ひらいた男大迹王

山崎輝暁

永平寺70世貫首 大森禅戒

高倉正一

ねむれる越の大王 六呂瀬山古墳群

荒木アサヲ

女形谷の老桜 今も見事なり

津田寿昭

延岡市は丸岡町と姉妹都市

石津達哉、
山田美由紀

火防祈願三社まいり

能勢貞子

ハッスルするよ丸岡サッカー

松村昭宏

キリシタン灯籠のある円光寺

上内義則

人柱 お静が守る霞ケ城

作成委員会

国神神社 椀子皇子を祀る

松本哲治

舟形石棺 牛ヶ島から

高倉悦枝

下駄を鳴らして踊る 舟寄踊り

木村 誠

「ペチカ」の曲は今川節の代表作

高橋英里

コシヒカリの父 石墨先生

高嶋龍也

本多家歴代墓所は本光院

黒川美恵

実盛もゆかりの池で身を清め

田島祥三

町の花は花しょうぶ

竹村香織
友田剛

新江用水を作った渡辺泉龍

金元美紀

道しるべ「左吉崎わかれ道」

金元美紀

過ぎた福井地震の震源地

田本賢一

昔をしのぶ タブの木

木谷重二郎

背くらべする たけくらべ山

上内多美子

めめんじゃこ祭 今年はどうか降らないで

松永和恵

荘厳な舞 日向神楽

高倉マサ子

もみじは町の木 大切に

福岡直子

高向郷は振媛の里

玉井利克
堀田啓

山竹田 流れは清く竹田川

和田佳代子

町名の由来 椀子皇子

高倉 真

ユニークな文化財 表児の米

作成委員会

坪江の里にわんかし山

石田正英

400の石段上り金刀比羅神社

作成委員会

皇陛下の北陸巡幸道 長田新道

作成委員会

ライン川の畔 マルクスブルクは姉妹城

高倉淑雄

豊原三千坊の夢の跡

石隅一馬
蔵裕彰

リボンとネームの丸岡町

北出幸美

 

 

 

留守を頼むと鬼作左

山崎 隆

 

 

 

霊験あらたかな吉谷不動明王

津田永子

渡辺茂十郎 竹田新道開発

作成委員会

ろばたでそばの千古の家

小原淳子

 「丸岡かるた」は平成3年10月に丸岡町の町民憲章制定20周年を記念して応募されたものです。町民一般から募集した、5,200余点の応募作品から、地理、歴史、社会、文化、人物、文化財等幅広い分野からバランスを考慮し選考したものです。絵札は早瀬瑞晃(福井県水墨画協会理事)、高桑勇甫(福井県水墨画協会理事)が担当した。読み札の裏には「丸岡町史」、「ふるさと100選」「丸岡町の文化財」等を参考に解説文が記載されています。この「丸岡かるた」によって、町民の皆さんに「ふるさと丸岡」を愛する心を育てるとともに、全国の皆さんに、丸岡をよく知っていただく一助になることを願っております。
                                                平成5年1月
   「丸岡かるた」作成委員会        
      牧田正太郎、高桑 勇、広部 英一、早瀬瑞晃、荒井 龍治
   石津 栄吉、 林 富次、 能勢 平、 西 義一、酒井 正雄                                        

 

    絵   札

  解 説

写 真 資 料

 

 

 

 

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 ありまけ れきだいぼしょ    こうがくじ
有馬家歴代墓所の高岳寺
                        

   高岳寺は有馬家の菩提寺です。本堂に向かって左手奥に、有馬家歴代大きな五輪の塔が並んでいます。幕末までに、日向時代の直純公、康純公、初代藩主清純公、三代孝純公の墓のみでしたが、明治43年(1910)には延岡から殉死者13名の墓を、 その後、東京上野の本覚院から江戸で亡くなった藩主の墓を高岳寺に移しました。(石上)

                       町指定文化財(史跡)

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 いし     にほんさいこ     まるおかじょう
石がわら日本最古の丸岡城

   天正4年(1576)柴田勝家の甥の柴田勝豊が築城した平山城で、現存する天守閣は日本最古のものである。屋根瓦が笏谷石で葺かれているのは全国でもめずらしい。平成15年に屋根等の修復回収工事があった。
  昭和9年(1934)に国宝に指定されたが、福井震災で倒壊し、昭和25年(1950)国指定の重要文化財となりました。(霞)

 

 

 

 

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 うつく   しぜん    なか  りゅうがばな 
美しい自然の中の龍ケ鼻ダム

   竹田川の上流にある多目的ダムで、高さ79.5m 長さ215m 昭和63年(1988)に完成。
   坂井平野に住む人々の豊かな暮らしを支えている。 
 ダムの周囲には公園や遊歩道等の施設が整備され、四季折々に美しい自然にふれることができる。(竹田)

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 えいへいじ  せ   かんしゅ おおもりぜんかい
永平寺70世貫首 大森禅戒

   明治4年(1871)猪爪に生まれた禅戒は14歳の時に台雲寺に弟子入りし、永平寺で修行
曹洞宗大学を卒業後、比叡山等国内各地で教学を終了しました。明治32年29歳で曹洞宗大学教授となり、その後 明治45年(1912)、駒沢大学の学長を歴任しました。
  昭和16年(1941)には大本山永平寺第70世貫首となられた。

 

 

 

 

 

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 おながたに   おいざくら  いま みごと
女形谷の老桜 今も見事なり

   女形谷のサクラは県内でも有数のエドヒガンザクラで、主幹は根廻り約10m、樹高15.5mの老木である。毎年4月上旬に薄桃色のきれいな花を満開につけています。(女形谷)

    県指定の文化財(天然記念物)

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 絵   札

 解  説

 写 真 資 料

 

 

 

 

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 かぼう きがん さんしゃ
火防祈願三社まいり

   丸岡の旧町内の新年会は火まつりといい、昔から言い続けられてきました。この日は区長と町内代表者が三社まいりをします。
 竹田口、円福院の愛宕社 
 谷町の福聚寺の秋葉神社 
 田町の東得寺の火防地蔵の三社で鎮火の神に火防祈願する習わしが現在も続いている。
   この風習は過去に丸岡で大火が何度もあったためであろう。

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田町東得寺前の火防地蔵

 

 

 

 

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           とうろう        えんこうじ
キリシタン灯籠のある円光寺

   この灯籠は円光寺宅の玄関先にあり、火袋を支える竿石には、観音像に似た聖母マリア像が彫られています。竿石の上部にはふくらみをもたせて十字架をかたどっています。
  元禄8年(1695)有馬清純が丸岡藩主となって入城されたときに、延岡から墓石といっしょに隠して運んだものではないかと言われています。(霞)

         町指定文化財(歴史資料)

 

 

 

 

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 くにがみじんじゃ まるこのおうじ    まつ
国神神社 椀子皇子を祀る

   国神神社の御祭神は継体天皇の第2皇子 椀子皇子です。皇子は常に住民を愛し、地域の開発に尽くされた。皇子の御神徳を敬い、国神神社に奉って、住民の御守護の神として、歴代領主や近郷近在の住民の厚い崇敬を受けるようになりました。春と秋の丸岡祭りはこの付近一帯の大祭というほどのにぎわいを見せています。(石城戸)

 

 

 

 

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 げた    な        おど    ふなよせおど
下駄を鳴らして踊る 舟寄踊り

   舟寄踊りは朝倉義景の家臣の黒坂備中の守景久が姉川の合戦に出陣するときに、領民たちが合戦の功績を祈願し踊ったと伝えられています。舟寄は旧北陸街道の宿場町として栄え、旧盆の8月の2日間、近郷近在の老若男女が集まり、夜おそくまでおどり明かしていました。
  最近は15日のみ、旧宿場町の広場で踊っています。(舟寄) 
        県指定文化財(無形民俗)

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        ちち   いしずみせんせい
コシヒカリの父 石墨先生

    「コシヒカリ」は農林22号と農林1号を人工交配した作られたものです。今や日本のおいしいお米を代表する品種となり、世界の各地でもたくさん栽培されています。このコシヒカリを作り出した方が福井県農事試験場に勤務していた丸岡町舟寄の石墨慶一郎先生でした。
  退職の昭和52年までに22もの新品種を開発しました。平成1356日永眠(舟寄)

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 絵   札

 解 説

 写 真 資 料

 

 

 

 

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さねもり            いけ    み   きよ
実盛もゆかりの池で身を清め

   実盛池は丸岡城の北1kmの所にあった。源平合戦で名高い斉藤実盛にゆかりのある池であった。伝説では実盛が生まれたときにこの池で産湯を使ったという。歴史書には池の周りは60m深さ10m、2本の大きい松の木2本、その下に石搭が一基との記さいがある。最近まで池に水をたたえていたが、現在は新に植えられた松の木と立て看板一基、水面一帯を睡蓮や水草がおおって、さみしく昔を忍ばせています。
(長畝)          町指定文化財(史跡)

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しんえ ようすい   つく      わたなべせんりゅう
江用水を作った渡辺泉龍

   加賀の浪人の渡辺泉龍は丸岡藩主本多成重公の許可を得て、寛政2年(1625)から5年がかりで、田へ水を引く、農業用水工事を行った。 東二ツ屋から山久保に至る新江用水(長さ8km)となった。彼は野中山王の鰐淵家(現 高椋家)に寄宿し、当時の最新技術でもって、荒れ地を開拓し、美田となったのです。
  現在、直乗院境内にその遺徳をたたえて、石碑が建っています。(女形谷)

     渡辺泉龍碑 町指定文化財(史跡)

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 す    ふくいじしん       しんげんち
過ぎた福井地震の震源地

  昭和23年6月28日(1948) 福井震災では町内で死者637名を出した。多くの家屋が倒壊し、焼失してしまいました。その地震の震源地が丸岡町末政地籍と言われています。現在高速道路沿いに震源地を示す標識が静かに建っています。(末政)

 

 

 

 

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 せ                        
背くらべする たけくらべ山

   丸岡の東に2つの大きな山がその高さを競っているように見えます。丈競山という名前がついています。この山を登山する人は石を持って登り、山の背が高くなるのを手伝っています。山には神聖な神が宿っていると古代の人々は信仰と結びつけて、丈競山の山頂には地蔵様をまつっています。(竹田)
  南丈競山1065m 北丈競山 964.3m

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そうごん  まい  ひゅうがかぐら
荘厳な舞 日向神楽

   日向神楽は元禄8年(1695)丸岡藩主有馬清純公が日向国(宮崎県)から越後国(新潟県)糸魚川を経て丸岡に来られたときに、延岡から神楽の舞人を同伴し、丸岡城下の諸社祭礼に奉納させたことに由来します。
  現在は長畝の八幡神社の祭礼日に奉納される。この神楽は岩戸神楽とも呼ばれています。
(長畝 八幡神社)県指定文化財(無形民俗)

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  絵  札

  解  説

 写 真 資 料

 

 

 

 

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たかむくごう   ふりひめ   さと
高向郷は振媛の里
  
日本書紀によれば、5世紀の中頃近江の国高島郡に住む応神天皇の5世の孫である彦主人王(ひこうしおう)が、越の坂名井から振媛を妻として迎え入れたとあります。振媛は男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇を産み、まもなく父が亡くなったため、振媛は幼い皇子をつれて、ふるさとの高向郷(現在の丸岡町高田)に帰り、皇子を養育した。皇子は地域の政治家となられ、坂井平野の開発に貢献された。
  その後西暦507年には継体天皇(24年間在位)となられた。高椋はこの高向が転化したものです。高田付近は高向の宮の中心地であったといわれています。
   (高田) 高向神社)
      高向の宮跡 町指定文化財(史跡)

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振媛想像画

 

 

 

 

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 ちょうめい ゆらい  まるこのおうじ
町名の由来 椀子皇子

    6世紀ごろ 男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇は、ここ磨留古乎加(まるおか)で倭媛との間に第2皇子をもうけました。この皇子を椀子皇子と言いました。この磨留古乎加を略して、丸岡となった。または、まるこの皇子から丸岡となったとか。磨留は円で円陵(丸岡)を表し、乎加は丘陵を表す。丸岡藩は江戸では円陵と呼ばれていました。 現在城のある台地、この岡が丸岡の起こりでもあります。

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高速道路から丸岡城を望む

 

 

 

 

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つぼえ   さと            
坪江の里にわんかし山

   坪江から中川に至る丘陵地には総数234基の横山古墳群があります。椀貸山(わんかしやま)古墳群はこの横山古墳群の最南端に位置する。全長45mの前方後円墳で、6世紀頃のものと考えられる。昔から椀貸山の伝説があり、ここは継体天皇の椀子皇子(まるこのおうじ)の墓と伝えられています。(坪江)

            県指定文化財(史跡)

椀貸山古墳 
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 てんのうへいか ほくりくじゅんこうどう  ながたしんどう
皇陛下の北陸巡幸道 長田新道

   文政8年(1825)長田四郎作は糸問屋の長男として生まれた。明治4年廃藩置県により丸岡藩は解体し、彼は城下町がさびれることに対して、北横地から丸岡を通り牛の谷を経て、加賀大聖寺へ新しい道(現在の旧八号線)をつけることによって、活路を見い出そうと、私財をなげうって用地買収や工事費の工面等行いました。そして新道を完成させた。
  明治11年(1878)天皇陛下北陸巡幸にはこの新道をお通りになられました。

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 とよはらさんぜんぼう ゆめ    あと
豊原三千坊の夢の跡

   「豊原寺縁き起」によると、豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれた寺である。その後発展をとげ、豊原三千坊として勝山の平泉寺に次ぐ越前僧兵の中心的な大きな寺院になっていった。天正2年(1575)一向一揆の本拠地となったため、織田信長によって焼失してしまいました。江戸時代に再興したものの、明治時代には再び廃寺となりました。(豊原)
            町指定文化財(史跡)

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  絵  札

  解   説

  写 真 資 料

 

 

 

 

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 なかのしげはる                き
中野重治をしのぶ くちなし忌
  明治35年一本田に生まれる。 福井中学、金沢の第四高等学校文科、東京大学独逸文学科へと進み、学生時代から文学雑誌に文学作品を出し、「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」など代表的プロレタリア詩を発表。急速に左翼運動、共産主義運動に関わっていく。
  東大を卒業後 
プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍する。戦後 一本田に帰ってからも執筆活動を続ける。昭和22年4月参議院選挙全国区で見事当選する。彼の代表作の一つで、幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」や竜北中学校校歌を作詞。昭和39年3月「丸岡中学校の校歌の作詞は、ふるさととそこに育つ子どもたちに限りない思いを込めて作った。(一本田)

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 にったよしさだこう    まつ  しょうねんじ
新田義貞公を祀る称念寺

   新田義貞は南北朝の戦乱期初期の延元3年(1338)藤島庄灯明寺畷(ふじしましょうとうみょうじなわて)で戦死した武将です。その遺骸は長崎往生院(長崎称念寺)の白道上人によって手厚く葬られたと「太平記」に記されています。
  称念寺の大五輪の塔は天保8年(1837)の500回忌に際し、福井藩主松平宗矩公が旧墓石を埋めて、その上に建てたものであります。最近では平成元年に650回忌を盛大に行われました。 (長崎)
      
新田義貞公墓所 県指定文化財(史跡)

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 ぬまち         おほどのおう
沼地ひらいた男大迹王

   5世紀の中頃近江の国高島郡に住む応神天皇の5世の孫である彦主人王(ひこうしおう)が、越の坂名井から振媛を妻として迎え入れたとあります。振媛は男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇を産み、まもなく父が亡くなったため、振媛は幼い皇子をつれて、ふるさとの高向郷(現在の丸岡町高田)に帰り、皇子を養育した。皇子は地域の豪族という恵まれた環境で成人になられ、坂井平野の開発に貢献された。当時坂井郡は沼地で、九頭竜川の治水、干拓工事を進めたことにより、米どころ坂井平野が次第に拡大していった。


福井市足羽山の継体天皇石像

 

 

 

 

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       こし   だいおう 
ねむれる越の大王 
                  
ろくろせやまこふんぐん
                                    
六呂瀬山古墳群
  
六呂瀬山古墳群は上久米田の六呂瀬山山頂に4基からなる古墳群です。1号墳は4世紀頃の築造で、全長約140m後円部径約78m高さ13m前方部幅約58m同高さ11mの北陸最大規模の前方後円墳です。3号墳は5世紀の初めの築造と推定されています。
ともにこの坂井平野地域を支配した豪族の墓と考えられています。(上久米田)   
                国指定文化財(史跡)

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3号墳

 

 

 

 

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のべおかし    まるおかちょう  しまいとし
延岡市は丸岡町と姉妹都市

   有馬家が延岡藩主であったという歴史背景のもと 昭和54年(1979)に宮崎県延岡市と姉妹都市提携を結びました。今日まで延岡市の文化、産業、教育、宗教等で交流を行ってきました。平成18年3月に坂井市が誕生しますが、延岡市との交流は続くでしょう。元々丸岡藩は三国坂井春江地区にまたがる領地であったこともあり、坂井市と延岡市は引き続き姉妹都市として、進展していってほしいものです。

三国町梶の海岸にある
丸岡藩砲台跡

 

  絵  札

   解   説

  写 真 資 料

 

 

 

 

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ハッスルするよ丸岡サッカー

   丸岡町はサッカーが盛んな町です。昭和57年(1982)サッカースポーツ少年団が初の全国大会出場、その後何度か全国大会に出場している。丸岡中学校では全国中学校大会に常時出場、丸岡高校でも全国大会、インターハイ、国体等その強さは全国トップレベルです。
 平成4年(1992)4月には、町内長崎に丸岡サッカースポーツランドが完成し、県内初の専用サッカー場がオープンした。(長崎)

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 ひとばしら  しず   まも  かすみがじょう
人柱 お静が守る霞ケ城

   丸岡城築城の時の伝説で、石垣が何度も崩れ城が建てられないので、人柱を入れることになりました。片目の女(お静)が息子を武士に取り立てる約束で人柱になりました。その後城に片目の蛇が住んでいると言われ、敵が城を攻めようとすると、その蛇が出てきて霞をはいて城を守ったと伝えられています。いつしか丸岡城は霞ケ城と呼ぶようになりました。(霞)

 


城の上り口にある慰霊碑

 

 

 

 

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ふながたせきかん  うしがしま
舟形石棺 牛ケ島から

   牛ヶ島石棺は、牛ヶ島の東側にある御野山古墳の西側から出土したと伝えられています。笏谷石製で前後左右には縄かけ突起があります。大きさは長さ2.1m 巾76cm 高さ30cm  内寸長さ1.7m 巾28〜44cm 深さ14cmで県内では最も古い時期の舟形石棺(割竹形石棺)です。現在は丸岡城公園に安置されています。

          町指定文化財(考古資料) 

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         きょく   いまがわせつ  だいひょうさく
「ペチカ」の曲は今川節の代表作

   明治41年(1908)巽町に生まれ、独学で音楽を学び数々の作品を生み出しました。みなさんがよく知っている「ちょうちょ」という曲は今川のはじめて有名になった曲です。「雪の降る夜はたのしいペチカ」これも今川の代表作品なのです。将来を期待された今川でありましたが、肺の病気がこのころから悪化してきたのです。1ヶ月たったころ、血を吐き倒れてしまいました。勤めてきた銀行もやめねばならなくなってしまいました。そして12月、ローレル楽団員らにみとられながら静かに26年の生涯をとじました。


緑幼稚園庭には顕彰碑が建っています。

 

 

 

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 ほんだけれきだいぼしょ     ほんこういん
本多家歴代墓所は本光院

   成重は慶長17年(1612)に福井藩の補佐のために、丸岡城主になり、福井藩政を支えていました。   大阪の陣に参戦して活躍しています。 特に夏の陣では、真田幸村の軍を破り、大阪城討ち入り一番乗りを果たす功績をあげて、寛永元年(1624)に4万6千300石の初代丸岡藩主となりました。城郭も整備して、その後4代続きました。一筆啓上の手紙は本多作左門尉重次が陣中から妻に宛てて送った手紙のことです。「お仙」とは後の本多成重(幼名.仙千代)のことです。(巽)
            町指定文化財(史跡)

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  絵  札

  解  説

 写 真 資 料

 

 

 

 

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まち はな
町の花は花しょうぶ

   町の花 花菖蒲は町民から募集し、昭和51年2月に指定されました。花菖蒲の紫色には品位が感じられ、その柔らかさは優しさに通じ、また、文化の香り高い古城の町にふさわしい「尚武」にあやかっているとの理由からです。右の写真は竹田の千古の家の前で、3年生のふるさとめぐり学習会の時に撮りました。

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みち       ひだりよしざき         みち
道しるべ「左吉崎わかれ道」

   慶長9年(1604)江戸幕府は60間を1町、36町を1里(約4km)と定め、全国の主要道に1里毎に一里塚を設けました。旧北陸街道では森田の船橋から一里の所の北横地に一里塚を設けました。塚は明治の初めに取り壊され、現在左よしざき道の標識のみ、昔の面影をしのばせています。次の一里塚は坂井町の長畑の一里塚(坪川電気店横)となります。(北横地)

            町指定文化財(史跡)

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右側は旧国道八号線
左側は旧北陸街道

 

 

 

 

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むかし                  
昔をしのぶ タブの木

   丸岡城築城当時(1570頃)のなごりを残す唯一の大木が国神神社北西隅にある。500年近くの樹齢にもかかわらず、青葉を繁らしている。震災までは境内に多くの樹木が茂っていたものの、この大木のみが震災をはじめ幾多の難にも耐えて、生き続けている。国神神社の神木として、現在大切に保存されています。(霞)

         町指定文化財(天然記念物)

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めめんじゃこ祭 今年はどうか降らないで

   「めめんじゃこ」とはめだかや小魚を意味する。丸岡祭りはよく雨に降られる。
 よく水たまりで小魚が喜んでたくさん集まっている。雨降りにもかかわらず国神神社の境内や道端の露店にたくさんの人々が集まって祭りを楽しんでいる様子がいつしか、水を得て楽しんでいる祭りの様子の表現になっていった。
                      (石城戸 国神神社)

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丸岡祭りの時期に古城祭りを行っています。

 

 

 

 

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もみじは町の木 大切に

  町の木もみじは町民から募集し、昭和51年2月に指定されました。丸岡城を取り囲む木々として春はサクラ、秋はもみじと町民の目と心を楽しませ、四季折々の緑から紅に移り変わるその美しさは庶民の気持ちを表しているとの理由から指定されました。

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紅葉の城公園で幼保園の
子どもたちの交流会

 

 

 

 

 

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 やまたけだ            たけだがわ
山竹田 流れは清く竹田川

   竹田川は丈競山の東北の加越山地に源を発し、竹田深山の谷水を集めて上竹田橋まで約10kmの峡谷部をなしています。これより竹田盆地の水流を集めて、川上橋までの約8kmの峡谷部をなし、その後約27kmの平坦部を曲流して三国に至り,九頭竜川に注いでいます。

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          ぶんかざい   ひょうこ   こめ
ユニークな文化財 表児の米

   表児の米は、北横地の布久漏神社に伝わる神事です。9月14日の宵、村の若者数十名がふんどし姿で公民館に集まり、太鼓のおはやしに合わせて歌いながら肩を組み輪になって「おだしより」という行事を行います。続いて米つきが行事「今つく米は百姓の涙米・・・ 」と歌いながらつき上げます。それをセイロで蒸し上げ、神前に供えます。(北横地)
       県の指定文化財(無形民俗)

 

 

 

 

 

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よんひゃく  いしだん のぼ  こんぴらじんじゃ
四百の石段上り金刀比羅神社

   丸岡藩の福島恵喜子は天保年間(1830〜1844)4回も四国の八十八ケ所札所を巡拝し、その後田屋に新八十八ケ所を作りました。約400段の石段を造り、この山を巡れば、四国八十八ケ所巡礼と同じ功徳得られると信じられ多くの参拝者で賑わうようになりました。その後、この山を護城山と命名し観音霊場として昭和期まで栄えました。(田屋)

           町指定文化財(史跡)

 

  絵  札

  解  説

 写 真 資 料

 

 

 

 

 

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    がわ   ほとり             しまいじょう
ライン川の畔 マルクスブルクは姉妹城

   丸岡町と西ドイツのブラウバッハ市のマルクスブルク城とは平成元年(1989)に姉妹城提携を結びました。文化、産業の交流発展と永遠のきずなを誓い合いました。マルクスブルク城はライン川の河畔で、破壊されたことのない唯一の城で、礼拝堂の塔は中世ヨーロッパロマネスク様式です。土台建築は300年ほど前の建造と推察されています。

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           まるおかちょう
リボンとネームの丸岡町

   大正4年(1915)霞町の角田広氏と内田良作氏が従来の紋テープ織機を改良し、織マーク工場を開設しました。また、その頃柳沢仙吉氏も紋べりやリボン織機を使って細巾織物を製造し始めました。これが町の基幹産業の細巾織物のスタートでした。現在全国のシェアの80%を占めるまでになりました。

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 るす  たのむ   おにさくざ
留守を頼むと鬼作左

   本多作左門尉重次は三河の人で、徳川家康に幼少の頃から仕えた譜代の武将でした。三奉行の一人となり、訴訟や兵事を担当し、「鬼作左」の勇名を轟かせました。陣中から家族にあてた「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」と書き送った話は有名で、この文は現在でも要領の良い手紙の書き方の手本とされています。「お仙」とは後の本多成重(幼名.仙千代)のことです。最近町内の某酒造会社が「鬼作左」の酒を販売し始めました。(霞)

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一筆啓上 碑

 

 

 

 

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 れいけん        よしたにふどうみょうおう
霊験あらたかな吉谷不動明王

   吉谷寺は天台宗豊原寺とともに繁栄し、滝に打たれて護摩をたいての荒修業は格好の霊場です。現在竹田地区の山中にわずかに観音堂と不動堂のみが残っている。
 テツの鎖にすがって岸壁を登ると、10m余りの岩屋が滝の裏にある。不動明王は秘仏として奥の院に納められている。(竹田)

    吉谷寺跡は町指定文化財(史跡)

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         せんこ    いえ
ろばたでそばの千古の家

   千古の家(坪川家住宅)は桁行14.5m 梁行10.3mの木造建物で、屋根は入母屋造りで茅葺き、妻入り背面は寄せ木造り
  構造や手法から江戸初期の頃のものと考えられる。県下最古の民家として貴重な文化財です。(竹田)

                  国指定の文化財(建造物)

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わたなべもじゅうろう   たけだしんどうかいはつ
渡辺茂十郎 竹田新道開発
  
茂十郎は文久2年(1862)生まれ
当時、丸岡から竹田へは榎峠道 豊原線が最も利用されていた。山竹田の渡辺茂十郎は、竹田川沿いに平坦な道をつけたいと計画し、こうして明治30年(1897)事業費3,500円をもって着工した。茂十郎36歳のときである。
 川の両岸には岩肌で絶壁となっている個所が多く、予想外の難工事であった。人夫集めに苦労しながら工事を続け、寝食を忘れて奔走し、私財まで投げ出して、この道路一筋に心身を打ち込み、5年の歳月を費やしてついに新道が開通した。川上地区の新道沿いには彼の顕彰碑が建っています。(川上)

 

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