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たかむくごう ふりひめ さと 高向郷は振媛の里
日本書紀によれば、5世紀の中頃近江の国高島郡に住む応神天皇の5世の孫である彦主人王(ひこうしおう)が、越の坂名井から振媛を妻として迎え入れたとあります。振媛は男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇を産み、まもなく父が亡くなったため、振媛は幼い皇子をつれて、ふるさとの高向郷(現在の丸岡町高田)に帰り、皇子を養育した。皇子は地域の政治家となられ、坂井平野の開発に貢献された。
その後西暦507年には継体天皇(24年間在位)となられた。高椋はこの高向が転化したものです。高田付近は高向の宮の中心地であったといわれています。 (高田) 高向神社) 高向の宮跡 町指定文化財(史跡)
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振媛想像画
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ちょうめい ゆらい まるこのおうじ 町名の由来 椀子皇子
6世紀ごろ 男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇は、ここ磨留古乎加(まるおか)で倭媛との間に第2皇子をもうけました。この皇子を椀子皇子と言いました。この磨留古乎加を略して、丸岡となった。または、まるこの皇子から丸岡となったとか。磨留は円で円陵(丸岡)を表し、乎加は丘陵を表す。丸岡藩は江戸では円陵と呼ばれていました。 現在城のある台地、この岡が丸岡の起こりでもあります。
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高速道路から丸岡城を望む
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つぼえ さと 坪江の里にわんかし山
坪江から中川に至る丘陵地には総数234基の横山古墳群があります。椀貸山(わんかしやま)古墳群はこの横山古墳群の最南端に位置する。全長45mの前方後円墳で、6世紀頃のものと考えられる。昔から椀貸山の伝説があり、ここは継体天皇の椀子皇子(まるこのおうじ)の墓と伝えられています。(坪江)
県指定文化財(史跡)
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椀貸山古墳
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てんのうへいか ほくりくじゅんこうどう ながたしんどう 天皇陛下の北陸巡幸道 長田新道
文政8年(1825)長田四郎作は糸問屋の長男として生まれた。明治4年廃藩置県により丸岡藩は解体し、彼は城下町がさびれることに対して、北横地から丸岡を通り牛の谷を経て、加賀大聖寺へ新しい道(現在の旧八号線)をつけることによって、活路を見い出そうと、私財をなげうって用地買収や工事費の工面等行いました。そして新道を完成させた。
明治11年(1878)天皇陛下北陸巡幸にはこの新道をお通りになられました。
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とよはらさんぜんぼう ゆめ あと 豊原三千坊の夢の跡
「豊原寺縁き起」によると、豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれた寺である。その後発展をとげ、豊原三千坊として勝山の平泉寺に次ぐ越前僧兵の中心的な大きな寺院になっていった。天正2年(1575)一向一揆の本拠地となったため、織田信長によって焼失してしまいました。江戸時代に再興したものの、明治時代には再び廃寺となりました。(豊原) 町指定文化財(史跡)
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絵 札
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解 説
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なかのしげはる き 中野重治をしのぶ くちなし忌
明治35年、一本田に生まれる。 福井中学、金沢の第四高等学校文科、東京大学独逸文学科へと進み、学生時代から文学雑誌に文学作品を出し、「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」など代表的プロレタリア詩を発表。急速に左翼運動、共産主義運動に関わっていく。 東大を卒業後 プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍する。戦後
一本田に帰ってからも執筆活動を続ける。昭和22年4月参議院選挙全国区で見事当選する。彼の代表作の一つで、幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」や竜北中学校校歌を作詞。昭和39年3月「丸岡中学校の校歌」の作詞は、ふるさととそこに育つ子どもたちに限りない思いを込めて作った。(一本田)
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にったよしさだこう まつ しょうねんじ 新田義貞公を祀る称念寺
新田義貞は南北朝の戦乱期初期の延元3年(1338)藤島庄灯明寺畷(ふじしましょうとうみょうじなわて)で戦死した武将です。その遺骸は長崎往生院(長崎称念寺)の白道上人によって手厚く葬られたと「太平記」に記されています。
称念寺の大五輪の塔は天保8年(1837)の500回忌に際し、福井藩主松平宗矩公が旧墓石を埋めて、その上に建てたものであります。最近では平成元年に650回忌を盛大に行われました。 (長崎) 新田義貞公墓所 県指定文化財(史跡)
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ぬまち おほどのおう 沼地ひらいた男大迹王
5世紀の中頃近江の国高島郡に住む応神天皇の5世の孫である彦主人王(ひこうしおう)が、越の坂名井から振媛を妻として迎え入れたとあります。振媛は男大迹王(おほどのおう)後の継体天皇を産み、まもなく父が亡くなったため、振媛は幼い皇子をつれて、ふるさとの高向郷(現在の丸岡町高田)に帰り、皇子を養育した。皇子は地域の豪族という恵まれた環境で成人になられ、坂井平野の開発に貢献された。当時坂井郡は沼地で、九頭竜川の治水、干拓工事を進めたことにより、米どころ坂井平野が次第に拡大していった。
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福井市足羽山の継体天皇石像
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こし だいおう ねむれる越の大王
ろくろせやまこふんぐん
六呂瀬山古墳群 六呂瀬山古墳群は上久米田の六呂瀬山山頂に4基からなる古墳群です。1号墳は4世紀頃の築造で、全長約140m後円部径約78m高さ13m前方部幅約58m同高さ11mの北陸最大規模の前方後円墳です。3号墳は5世紀の初めの築造と推定されています。 ともにこの坂井平野地域を支配した豪族の墓と考えられています。(上久米田) 国指定文化財(史跡)
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3号墳
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のべおかし まるおかちょう しまいとし 延岡市は丸岡町と姉妹都市
有馬家が延岡藩主であったという歴史背景のもと 昭和54年(1979)に宮崎県延岡市と姉妹都市提携を結びました。今日まで延岡市の文化、産業、教育、宗教等で交流を行ってきました。平成18年3月に坂井市が誕生しますが、延岡市との交流は続くでしょう。元々丸岡藩は三国坂井春江地区にまたがる領地であったこともあり、坂井市と延岡市は引き続き姉妹都市として、進展していってほしいものです。
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三国町梶の海岸にある 丸岡藩砲台跡
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ハッスルするよ丸岡サッカー
丸岡町はサッカーが盛んな町です。昭和57年(1982)サッカースポーツ少年団が初の全国大会出場、その後何度か全国大会に出場している。丸岡中学校では全国中学校大会に常時出場、丸岡高校でも全国大会、インターハイ、国体等その強さは全国トップレベルです。 平成4年(1992)4月には、町内長崎に丸岡サッカースポーツランドが完成し、県内初の専用サッカー場がオープンした。(長崎)
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ひとばしら しず まも かすみがじょう 人柱 お静が守る霞ケ城
丸岡城築城の時の伝説で、石垣が何度も崩れ城が建てられないので、人柱を入れることになりました。片目の女(お静)が息子を武士に取り立てる約束で人柱になりました。その後城に片目の蛇が住んでいると言われ、敵が城を攻めようとすると、その蛇が出てきて霞をはいて城を守ったと伝えられています。いつしか丸岡城は霞ケ城と呼ぶようになりました。(霞)
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城の上り口にある慰霊碑
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ふながたせきかん うしがしま 舟形石棺 牛ケ島から
牛ヶ島石棺は、牛ヶ島の東側にある御野山古墳の西側から出土したと伝えられています。笏谷石製で前後左右には縄かけ突起があります。大きさは長さ2.1m 巾76cm 高さ30cm
内寸長さ1.7m 巾28〜44cm 深さ14cmで県内では最も古い時期の舟形石棺(割竹形石棺)です。現在は丸岡城公園に安置されています。
町指定文化財(考古資料)
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きょく いまがわせつ だいひょうさく 「ペチカ」の曲は今川節の代表作
明治41年(1908)巽町に生まれ、独学で音楽を学び数々の作品を生み出しました。みなさんがよく知っている「ちょうちょ」という曲は今川のはじめて有名になった曲です。「雪の降る夜はたのしいペチカ」これも今川の代表作品なのです。将来を期待された今川でありましたが、肺の病気がこのころから悪化してきたのです。1ヶ月たったころ、血を吐き倒れてしまいました。勤めてきた銀行もやめねばならなくなってしまいました。そして12月、ローレル楽団員らにみとられながら静かに26年の生涯をとじました。
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緑幼稚園庭には顕彰碑が建っています。
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ほんだけれきだいぼしょ ほんこういん 本多家歴代墓所は本光院
成重は慶長17年(1612)に福井藩の補佐のために、丸岡城主になり、福井藩政を支えていました。
大阪の陣に参戦して活躍しています。 特に夏の陣では、真田幸村の軍を破り、大阪城討ち入り一番乗りを果たす功績をあげて、寛永元年(1624)に4万6千300石の初代丸岡藩主となりました。城郭も整備して、その後4代続きました。一筆啓上の手紙は本多作左門尉重次が陣中から妻に宛てて送った手紙のことです。「お仙」とは後の本多成重(幼名.仙千代)のことです。(巽) 町指定文化財(史跡)
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絵 札
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解 説
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写 真 資 料
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がわ ほとり しまいじょう ライン川の畔 マルクスブルクは姉妹城
丸岡町と西ドイツのブラウバッハ市のマルクスブルク城とは平成元年(1989)に姉妹城提携を結びました。文化、産業の交流発展と永遠のきずなを誓い合いました。マルクスブルク城はライン川の河畔で、破壊されたことのない唯一の城で、礼拝堂の塔は中世ヨーロッパロマネスク様式です。土台建築は300年ほど前の建造と推察されています。
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まるおかちょう リボンとネームの丸岡町
大正4年(1915)霞町の角田広氏と内田良作氏が従来の紋テープ織機を改良し、織マーク工場を開設しました。また、その頃柳沢仙吉氏も紋べりやリボン織機を使って細巾織物を製造し始めました。これが町の基幹産業の細巾織物のスタートでした。現在全国のシェアの80%を占めるまでになりました。
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るす たのむ おにさくざ 留守を頼むと鬼作左
本多作左門尉重次は三河の人で、徳川家康に幼少の頃から仕えた譜代の武将でした。三奉行の一人となり、訴訟や兵事を担当し、「鬼作左」の勇名を轟かせました。陣中から家族にあてた「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」と書き送った話は有名で、この文は現在でも要領の良い手紙の書き方の手本とされています。「お仙」とは後の本多成重(幼名.仙千代)のことです。最近町内の某酒造会社が「鬼作左」の酒を販売し始めました。(霞)
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一筆啓上 碑
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れいけん よしたにふどうみょうおう 霊験あらたかな吉谷不動明王
吉谷寺は天台宗豊原寺とともに繁栄し、滝に打たれて護摩をたいての荒修業は格好の霊場です。現在竹田地区の山中にわずかに観音堂と不動堂のみが残っている。
テツの鎖にすがって岸壁を登ると、10m余りの岩屋が滝の裏にある。不動明王は秘仏として奥の院に納められている。(竹田)
吉谷寺跡は町指定文化財(史跡)
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せんこ いえ ろばたでそばの千古の家
千古の家(坪川家住宅)は桁行14.5m 梁行10.3mの木造建物で、屋根は入母屋造りで茅葺き、妻入り背面は寄せ木造り
構造や手法から江戸初期の頃のものと考えられる。県下最古の民家として貴重な文化財です。(竹田)
国指定の文化財(建造物)
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わたなべもじゅうろう たけだしんどうかいはつ 渡辺茂十郎 竹田新道開発
茂十郎は文久2年(1862)生まれ 当時、丸岡から竹田へは榎峠道 豊原線が最も利用されていた。山竹田の渡辺茂十郎は、竹田川沿いに平坦な道をつけたいと計画し、こうして明治30年(1897)事業費3,500円をもって着工した。茂十郎36歳のときである。 川の両岸には岩肌で絶壁となっている個所が多く、予想外の難工事であった。人夫集めに苦労しながら工事を続け、寝食を忘れて奔走し、私財まで投げ出して、この道路一筋に心身を打ち込み、5年の歳月を費やしてついに新道が開通した。川上地区の新道沿いには彼の顕彰碑が建っています。(川上)
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