丸岡町編
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平章小学校校下

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日本最古の天守閣をもつ城下町として発展し、城にまつわる歴史文化を今に受け継いでいる。

日本最古の天守閣 丸岡城

丸岡城公園

 丸岡古城まつり

 

 

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  城郭一帯には、数百本のソメイヨシノ桜が植えられ、毎年4月の開花時期にその別名霞ヶ城の名にふさわしく、花の霞に浮立つ古城の眺めはひとしお旅情をそそるものがあり、県下の景勝地として有名である。丸岡城は、柴田勝豊(勝家の甥)が天正四年(西暦1576年)北ノ庄城(福井)の支城として築城したお城で(別名、霞ヶ城)、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な建造物である。
                      
国の重要文化財 

 1979年に築城400年を記念して、整備され造られた日本庭園式の霞ケ城公園(丸岡城公園)春はみどり、秋は紅葉が美しい。明治・大正期に活躍した郷土の偉人や名士の碑がある。

 毎年10月中旬に丸岡城まつり 5万石パレード、武者行列、からくり人形山車、そして丸岡町民総踊の輪が町の目抜き通りに繰り広げられる。

丸岡町歴史資料館
 
丸岡城公園内

200年の歴史と伝統の平章小学校
  
丸岡町霞町2丁目41

丸岡城の外堀

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  丸岡城公園内にある歴史民俗資料館
 歴代城主ゆかりの武具、古文書、資料等が展示されている。

 

   文化元年(1804)丸岡藩主の有馬誉純公が創設した藩校「平章館」以来204年の歴史と伝統のある小学校。 2004年に平章教育200周年記念式典を挙行した。現存する200年の歴史のある小学校は国内でも珍しい。

  丸岡城の内堀は明治末期に埋め立てられて、現在は存在しない。平章小学校グラウンドや図書館前のふれあい広場、一筆啓上茶屋や城公園等が内堀の跡、外堀は国神神社横や新町等に現在も残っている。

牛ヶ島石棺
  
丸岡城公園内

切支丹灯籠
丸岡町霞1-3 円光寺

本多家の歴代墓所 
 
丸岡町巽 本光院

蓑笠庵梨一墓
石城戸4ー13 台雲寺

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  現在 丸岡城公園に保管されている4世紀頃の石棺。振媛一族の石棺とも云われている。 丸岡町牛ヶ島地区の白山神社近くの御野山古墳から出土した。
 
坂井市の指定文化財

   火袋を支える竿石には、観音像に似た聖母マリア像が彫られています。竿石の上部にはふくらみをもたせて十字架をかたどっている。

坂井市の指定文化財

  本多家は丸岡藩初代藩主 本多成重(幼名.仙千代)、その後4代続いたきました。本多家歴代の墓所である。
 
坂井市の指定文化財 

   梨一は正徳3年(1714)生まれ、古典や俳句つくり、算数が得意で、50歳のときから、丸岡に住み、藩士に学問を教えていた。この塾を蓑笠庵と呼びました。彼の遺徳を受け継ぎ、現在でも町俳句梨一賞が受け継がれている。
 
坂井市の指定史跡 

家老有馬天然屋敷跡庭園
  十日講の敷地内(霞1-4)

タブの大木
   国神神社の北西角

一筆啓上石碑
          城の登り口

お静の供養碑
     
丸岡城天守閣登り口

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  京都の庭師 松右エ門作により、近江八景をかたどって造られた庭で、近隣では唯一のものである。
   
坂井市の指定史跡

  国神神社の境内に樹齢数百年の松や杉、けやき、楓、いちょう、たぶ等の大木が茂っていました。昭和23年の福井震災で全部焼けてしまい、その中で、たぶの大木だけが焼け残りました。現在でも、路肩に神木として、しめなわを張られて敬われている。これは樹齢400〜500年位で、丸岡城が最初に建てられたころより茂っていたことになる。
    
坂井市の天然記念物

   一筆啓上日本一短い手紙の基となった「一筆啓上 お仙なかすな 馬肥やせ」の手紙文の碑 お仙とは初代丸岡藩主の本多成重(幼名.仙千代)のことである。

   丸岡城築城の時の伝説で、石垣が何度も崩れ城が建てられないので、人柱を入れることになりました。片目の女(お静)が息子を武士に取り立てる約束で人柱になりました。

国神神社
 
丸岡町石城戸1−2

北陸絵画界の巨匠(北陸三堂)
 
顕彰碑   丸岡城公園内

長田四郎作新道顕彰碑 
              丸岡城公園

今川節顕彰碑
     霞1−5 緑幼稚園庭

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  国神神社の御祭神は継体天皇の第2皇子 椀子皇子である。皇子は常に住民を愛し、地域の開発に尽くされた。皇子の御神徳を敬い、国神神社に奉って、住民の御守護の神として、歴代領主や近郷近在の住民の厚い崇敬を受けるようになりました。春と秋の丸岡祭りはこの付近一帯の大祭というほどのにぎわいを見せている。(石城戸)

   長田雲堂は幕末に谷町に生まれ、小さい時から絵が得意でした。京都や長崎で南画(水墨画)を習った後、明治3年頃中国に渡り、中国南画の神髄を極めた。帰国後、福井や丸岡で多くの作品を世に出して活躍した。
  山田介堂は神明神社の東隣で生まれた。京都で南画を修行し、関西方面で実力をつけていき、日本南画協会を結成した。全国的な画家となって、多く作品を残している。大正13年に56歳で亡くなった。
 内海吉堂は敦賀出身の南画家で、これらの3人を「北陸三堂」として、その功績を讃えている。

   明治6年頃、丸岡から加賀大聖寺に至る新道建設に尽力(それまでは旧北陸街道が加賀への道であった。)
 谷町の長田四郎作氏(子孫は福井震災までは写真店を営んでいた。)をはじめとする一般人が自分の財産をなげうって、工事費を出し、3年もかかって工事をしました。今も残る新道の地名はこの丸岡口から新しい道が工事されたからである。
長田四郎作 (1825〜1899) 

   明治41年(1908)巽町に生まれ、独学で音楽を学び数々の作品を生み出しました。「ちょうちょ」「ペチカ」は彼の代表作品である。将来が偉大な音楽家と宿望されていたが病気26年で生涯をとじました。

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旧北陸街道に沿いに発展した舟寄宿場、 十郷用水、兵庫川の水利に恵まれ、古代から稲作が盛んな地域

称念寺(新田義貞公墓所)
 丸岡町長崎19-17

黒坂備中守館跡(舟寄城跡)
 日東シンコ―KK敷地内

舟寄踊 
  舟寄区内 踊り広場

北陸街道「吉崎道」道しるべ
              舟寄踊りの広場

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  新田義貞は南北朝の戦乱期の延元3年(1338)藤島庄灯明寺畷(ふじしましょうとうみょうじなわて)で戦死した武将である。その遺骸は長崎往生院(長崎称念寺)の白道上人によって手厚く葬られたと「太平記」に記されている。県の指定史跡

  朝倉義景の家臣の黒坂備中守景久は加賀の一向一揆に対するため,舟寄に館(舟寄城)を構え,坂井市東部一帯を治めていた。舟寄館跡は現在の日東シンコー(株)の会社敷地内にあり,南北75m,東西84mほどの規模であった。                (坂井市指定文化財)

  今から400年ほど前、越前領主朝倉義景の重臣、黒坂備中守景久が、姉川の戦いに出陣する武士に酒宴を開いた時に踊られたのが始まりと云われている。 旧北陸街道の宿場として栄え、区内の広場では8月15日には「舟寄踊」が行われる。
            
県の無形民俗文化財

   江戸時代の舟寄集落は200戸を超す大集落で、北陸街道の宿場街として発展していた。踊り場に加賀への道しるべが残っている。吉崎詣りの旅人の道しるべでもあった。

 

一本田観音院千手観音菩薩像
      
丸岡町一本田神明社

高柳救世観世音菩薩像
 
丸岡町高柳4-1-1

中野重治生家跡
  丸岡町一本田

一本田中不動明王(お堂)
 一本田中八幡神社境内

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   寛正2年(1462)、永平寺の僧無参石門和尚が集落の西部に観音庵を建てたのが始まりで,元禄8年(1695)頃には,千手観音を本尊とするお堂が建った。観音堂内には西国33ヵ所の観音が祀られ,周囲には33ヵ所の霊場の土が盛られていたことから,大勢の人々がお参りするようになった。当観音像は33年毎にご開帳する秘仏として崇められ、今日に継承されている。平成のご開帳は平成20年8月9〜10日でした。
 

  八幡神社には付近の川から流れてきたと云われている菩薩像がある。 
  この像に付属する木簡には「奉再建救世観音菩薩實蔵」文化12年(1815)蒔田半左衛門平忠貞と書かれているので,神社再建時に代官の蒔田氏が観音堂を寄進したと見られる。



 

   明治35年、一本田に生まれた。 「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」など代表的プロレタリア詩を発表。プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍した。戦後昭和22年4月参議院選挙全国区で見事当選した。彼の代表作の一つで、幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」や竜北中学校校歌を作詞。昭和39年3月「丸岡中学校の校歌の作詞は、ふるさととそこに育つ子どもたちに限りない思いを込めて作った。

   延宝2年(1674)旧鳴鹿村の下久米田(現在の坂井市丸岡町下久米田)の田んぼの中から掘り出された不動明王が更に元禄10年(1697)7月に霊夢で丸岡城主の有馬左衛門佐清純公によって一本田中村に移された。この不動堂は石瓦(笏谷石)60枚でふきあげられて、桧材で堅牢に造られているため福井震災の時は倒壊を免れた。中のご神体は立派な「御厨子」の中に納められて重量約80kg?とか、しかし古来から拝観が禁じられいるので定かではない。

 高柳陣屋と代官蒔田雁門の墓
 
高柳地区の墓地

 猪爪弁財天
 
猪爪東部第3公園内

 山田晩成園跡(伊藤梨園)
 丸岡町一本田22-48

日東シンコスタジアム
    丸岡スポーツランド
 
丸岡町長崎6−69

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  高柳には旗本の本多氏の陣屋があった。本多大膳重看が寛永3年(1626)に初代旗本となり,以後幕末まで5代続いた。本多氏は江戸詰めが多く,留守を預かる代官が地方の行政に携わっていた。現在,高柳墓地に代官の蒔田雁門(箏曲:秋風の曲の作詞者)の墓(通称:殿様の墓)がある。

  「たいちん池」「弁天清水」の湧水池があり,元禄12年(1699)以来,弁天堂を建てて弁財天を祀っている。御本像は現在台雲寺に安置されている。
 先人たちは池の水を飲料水や潅漑に用いていたが,昭和50年に埋め立てられ,現在は池の一部を残して芝生公園になっている。    

  本田の豪農山田家の長男として生まれ、父の後を継いで政界に乗り出し、全国農委会長である農政の第一人者となった。明治33年、県農事試験場を創設し、稲作栽培の試験を始め、新しい品種作りや土壌肥料の分析など近代農業の振興指針とした。同時に郡農事試験場を設置したり、自邸後方には果樹園(現在は伊東農園)も開いた。

  丸岡町はサッカーが盛んな町である。昭和57年(1982)サッカースポーツ少年団が初の全国大会出場、その後何度か全国大会に出場している。丸岡中学校では全国中学校大会に常時出場、丸岡高校でも全国大会、インターハイ、国体等その強さは全国トップレベルである。 平成4年(1992)4月には、町内長崎に丸岡サッカースポーツランドが完成し、県内初の専用サッカー場がオープンした。

                                                       

712年に泰澄太師が創建したと伝えられ、南北朝時代の新田義貞公の墓所 特に江戸幕府をはじめ各時代の将軍に保護されて、文化財が多く現存している。

他阿真教上人像

七重の義貞公墓石

阿弥陀三尊来迎仏

紙本墨書称念寺縁起

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   他阿真教上人は一遍上人が開いた時宗の2代目の上人で,正応3年(1290)に称念寺を念仏道場とした。 称念寺本は現存する最古の他阿真教上人像である。 絹本著色 鎌倉時代の作
                  
 国指定重要文化財
【他阿真教】(1237〜1319)一遍上人の一番弟子朝倉系図

   唐門の奥に木立に囲まれて義貞の廟所が現存している。墓は高さ2.6m余りの大きな五輪石塔で、天保8年(1837)、義貞の500回忌にあたり、福井藩主松平宗矩(むねかね)が義貞の古い墓石を埋めてその上に建立したものという。
     
県指定の史跡
 

   阿弥陀如来,観音菩薩,勢至菩薩の立像の三尊仏である。木造で鎌倉時代末期のもの推定され,称念寺縁起によると,豊原寺から移されたものである。 
       
坂井市の指定文化財

 

   長禄3年(1459)1月 第17代遊行上人が制作したものである。称念寺は泰澄太師が創建し,時宗の念仏道場となり,
新田義貞公の墓所であることが料紙17枚に書かれている。
    
坂井市の指定文化財

天皇宸翰(てんのうしんかん)

浄土三部経

九重の石塔

朝倉系図

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   天皇の勅願寺であった称念寺には,寛正6年(1465)の後花園天皇の綸旨が残っている。 また,後奈良天皇,霊元天皇の綸旨や戦国大名の古文書等も大切に保管されている。    坂井市の指定文化財 
 (綸旨:天皇の命を下に伝達する文)

   浄土教の根本経典は無量寿経上・下・観無量寿経・阿弥陀経の4巻に分かれている。いずれも斐紙に銀泥堺線を引き,墨書で書かれており,見返りには三尊迎光図が描かれている。鎌倉時代の作   
                    福井県指定文化財

   銘文に観喜院の菩提を弔うために寛永16年(1639)10月8日に建立したとある。 当時新田義貞公300回忌にあたり福井藩主から寄進を受けているので,この石塔も福井藩主の松平氏の寄進と思える。
                
坂井市の指定文化財

 

  越前の戦国大名朝倉氏の系図で,縦15.5cm 横23.5cm の冊子本である。内容「続群書類従本」と同じである。この系図の見返墨書によると,慶長19年(1614)とあり,現在発見されている朝倉系図の中では最も古いものとして貴重である。
          
坂井市指定文化財

寄進状や禁制

遊行上人縁起絵巻断簡模写

松尾芭蕉句碑

 義貞公の正一位顕彰碑

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   朝倉敏景,織田信長,柴田勝家,羽柴秀吉等の大名からの寄進状や禁制等が多数残されている。左の写真は天正元年(1573)織田信長が朝倉攻めに際し,称念寺に与えた強奪,乱暴,放火等を禁じる禁制である。

   正応3年(1290 )他阿真教上人の越前布教の様子が描かれている絵巻の断簡の一部である。 永徳元年(1381)頃 阿弥陀三尊来迎仏像と交換に,この絵巻を称念寺から豊原寺へ納めた。

             あけち    はなし
月さびよ 明智が妻の咄せむ
   元禄2年(1689)8月 松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り,明智光秀の夫婦愛の話(1560年代頃)を聞き,感激して詠んだ句である。

  明治天皇が義貞公に正一位を授けた。この碑はその顕彰碑である。大正 年に建立されたが、福井震災で碑の上部が折れたままになっている。

玉(細川ガラシャ)生誕の地 称念寺

   明智光秀が称念寺の門前に住んでいた頃、永禄6年(1563)に妻の煕子との間に三女(二女説,四女説もある)玉が生まれた。玉は7歳の頃まで長崎地区と福井市東大味で幼少期を過ごした。その後滋賀県坂本城で過ごし,15歳の時,織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぐ,天正10年(1582)父の光秀が本能寺で主君の織田信長を討った(本能寺の変)ことから,玉は「逆臣の娘」となり,約2年間丹後の味土野に隔離幽閉していたが,羽柴秀吉の取り計らいで,細川家の大坂屋敷に戻された。その頃から,玉はカトリックの教えに心ひかれて,やがて洗礼を受け,洗礼名ガラシャを受ける。関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)7月16日,西軍の石田三成は細川家にいたガラシャを人質に取ろうとしたが,ガラシャは拒絶し,次の日三成は強行するが,三成の兵に囲まれたガラシャは自分の家老に槍で部屋の外から胸を貫かせて死んだ。38歳だった。三成のガラシャ人質作戦の失敗が西軍の関ヶ原の敗戦の一因となった。
 ガラシャの遠縁にあたる細川護熙元総理大臣(旧熊本藩主細川家18代の末裔に当たる。)は1994年4月の辞任の際,ガラシャの辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花の花なれ人も人なれ」を引用したことでも知られている。右の写真はカトリック大阪大司教区教座聖堂 聖マリア大聖堂前の細川ガラシャ像

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高椋東部地区 継体天皇の母である「振媛」が高田地区の出身 振媛の里 山沿いには古墳が多く現存する。 

銭瓶古墳
  福井カントリーゴルフ場内

高向の宮跡
  高田地区の八幡(振媛)神社

常済大師誕生石碑
  
山崎三ヶ多禰神社境内

野中山王前方後円墳
 
福井カントリーゴルフ場内

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   椿長者の「カラト」遺跡と称する、露出した石室がある。出土した須恵器から7世紀後半に築造されたと考えられる。   
 福井カントリ−クラブゴルフ場内(中コース5番ホール)                        
坂井市の指定史跡

   その昔、振媛が男大迹皇子を養育し、立派な政治家として育てたふるさと「高向の宮」跡と言われ、現在振媛神社の場所が、市の指定史跡になっている。高向神社は継体天皇の母である振媛を祀る神社で、この周辺に振媛一族が住んでいた。
                      
坂井市の指定史跡 

   瑩山紹瑾(常済大師)は、文永5(1268)年10月8日に越前多禰村の観音堂に生まれた。永平寺で修業し、能登総持寺を開き、曹洞宗を広めた。曹洞宗では開祖道元と高祖、瑩山を太祖とあがめている。
                         
坂井市の指定史跡

   昭和40年後半頃、野中山王の南山麓でゴルフ場造成工事の時に東コース8番ホール近くから発見された前方後円墳である。

高椋家の門 
 野中山王25−5−1 

大森石棺 八幡神社境内

高杉社跡碑
  丸岡町山崎三ケ

福井震災震源地石碑
 丸岡町末政

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   明治5年に,丸岡城が払い下げになり,城の東側に位置していた不明門は,高椋家に移りました。

   昭和63年丸岡町教委の調査で、古墳前期の箱式石棺の一部(立木の横の巨石)で、石棺のふたの一部であることが確認された。

   瑩山紹瑾が多禰村の観音堂で誕生したという高杉社址の石碑が建っている。
                 (平成12年10月建立)

   昭和23年6月28日(1948) 福井震災では町内で死者637名を出した。多くの家屋が倒壊し、焼失してしまった。その地震の震源地が丸岡町末政地籍と云われている。現在北陸自動車道路沿いに震源地を示す標識が静かに立っている。

 明章小学校
   坂井市丸岡町油為頭14-5

丸岡南中学校
 坂井市丸岡町高瀬15-2

 椿長者屋敷跡
  
福井カントリーゴルフ場内

 朝倉義景のお墓
  
野中山王の高椋家墓地内 

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   平成4年に高椋東部地区に開校した新しいモダンな小学校。いち早く英語教育を取り上げ、米国の小学校との児童相互交歓交流も行った。

   南中学校は平成18年度4月開校の新しい中学校である。丸岡の磯部地区と明章地区の境にひと際モダン建物。ここが福井県内初のセンター方式の中学校である。

  フクイカントリ−の造成中に銭瓶古墳の北方200m(中コース5番ホールと西コース4番ホール)近くから、屋敷の庭石と見られるたくさんの石塊が出土し、長者屋敷の庭跡と思える。

高椋家の墓地に「松雲院殿大球宗光大居士」天正元年 八月廿日や「頼義室霊」の墓もある。朝倉義景の戒名が「松雲院殿大球宗光大居士」で,天正元年8月20日に自害していることから,これらの墓は朝倉義景とその側室等の墓と見える

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九頭龍川の扇央の鳴鹿地区は古代から人々の暮らしがあり、その古墳群は北陸地区で最大規模である。

六呂瀬古墳群
 
丸岡町上久米田

県総合グリーンセンター
  
丸岡町楽間15

鳴鹿堰堤
 
永平寺町法寺岡

越前竹人形の里
 
丸岡町上久米田63−1

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   六呂瀬山古墳群は上久米田の六呂瀬山山頂に4基からなる古墳群である。1号墳は4世紀後半頃の築造で、全長約140m後円部径約78m高さ13m前方部幅約58m同高さ11mの北陸最大規模の前方後円墳で、3号墳は5世紀の初めの築造と推定されている。
ともにこの坂井平野地域を支配した豪族の墓と考えられている。
                        
国の重要指定史跡

  12,000uの園内には、各種樹木園、芝生広場、大型遊具ど色々な施設が整備されている。また、通称「たまねぎハウス」のドーム温室には熱帯・亜熱帯果樹、熱帯花木、多肉植物、ヤシ類、観葉植物等2,400本を展示している。

   九頭龍川から取水して、十郷用水、河合春近用水、芝原用水等の坂井平野に水を流す灌漑農業用水のための鳴鹿大堰がある。1989年(昭和64)年着工 2003年竣工

  昭和60年に竹人形の里ができ、越前竹人形の竹細工の工房があり、竹工作教室では体験学習もできる。竹細工工芸品、越前の土産物の販売もあり、連日観光バスが出入りしている。

スタジイの天然記念物
       東二ツ屋白山神社

 久米田神社

 御野立所  上久米田地区

 瓦谷遺跡 上久米田地区

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   神社の境内には、御神木(神様の木)として大きなスダシイの大木がある。木の周りが6メートルもある太さで、樹齢100年位、ドングリのような実がなり、縄文時代から貴重な食料となっていた
坂井市の指定文化財(天然記念物)

 男大迹王が継体天皇となられ、都へ迎えられた時、妃(倭媛)は高向郷に留まられ皇子をお産みになりました。継体天皇は皇子がお生まれになったことを聞き、妃と皇子を都に迎えようと大伴金村を遣わしました。 ところが、金村がはるばる都から高向郷の地に着いた時には、妃は産後の肥立ちが悪くすでに亡くなられた後でした。 また、継体天皇の擁立に功績のあった大伴金村を、ここ久米田神社の祭神としてお祀りしました。   鳴鹿村史

 昭和8年10月25日、昭和天皇が福井県へ行幸(旅行)された時に、日本陸軍は九頭龍川の河原を使って、中国大陸での戦争に備えて大演習を行いました。四国の香川県にあった陸軍の善通寺十一師団と鯖江第九師団が参加して、九頭龍川を挟んで、さながら実戦のような戦争の練習をしました。その時、昭和天皇が、この大演習の戦いの様子を観戦する場所として、ここに決められました。
           
井関氏尚男氏資料 

  昭和45年の頃、「竹人形の里」の西方にある溜池の近くで、畑の中からたくさんの瓦の破片が出ました。詳しく調べた結果、奈良時代の後期に瓦を焼いた場所と分かりました。瓦を焼いた所は溜池の付近で、その所の小地名も『瓦谷』と記録されています。瓦の表面には布を押し当てた模様が残り「布目瓦」と云われている。たくさんの瓦の破片が発掘された場所の小地名は『箱屋谷』と云われている。 ここで発掘された瓦は、現在、市役所丸岡総合支所に保存している。
           
井関氏尚男氏資料 

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旧北陸街道は横地追分から丸岡街道に分岐していた。一里塚があり、交通の要所でもあった。

丸岡町北横地布久漏神社

旧吉崎道の道しるべ

 追分一里塚跡の石碑

 表児の米(ひょうこのこめ)

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 布久漏は北横地の古名で、この神社は応神天皇と神功皇后を祀る。この神社に伝わる「表児の米」は十郷用水の恵みに対する先人たちの尽力に感謝し、賽米を集めた事に由来している。

 旧北陸街道は横地の追分で丸岡街道に分岐していた。この追分には今でも、「左よしざき道」の道しるべが立っている。江戸時代から昭和初期まで、蓮如上人ゆかりの地である吉崎が栄えたことを今に伝えている。
                     
坂井市の指定史跡

  慶長9年(1604)江戸幕府は60間を1町、36町を1里(約4km)と定め、全国の主要道に1里毎に一里塚を設けた。旧北陸街道では森田の船橋から一里の所の北横地に一里塚を設けた。塚は明治の初めに取り壊され、路肩に小さい標識のみ、昔の面影を偲ばせている。(酒井二男氏宅横)

  表児の米は、毎年9月14日に丸岡町西部の礒部地区北横地の神社で開かれる。「表児の米」とは、北横地にある神社に古くから伝わる神事のことである。この勇壮な神事は、一晩中続き、米どころ丸岡町磯部地区の伝統行事となっている。
        
坂井市の指定文化財(無形)

不動塚 丸岡町今市

 

 

 

 

 

 

 

 昔、この今市に豪族を葬った高さ3m位の小高い塚山がありました。塚の近くの村人は、何か人事がある時は、お膳やお椀を何人前でも入用なだけ、前の晩にお願いしておけば、明けの朝には注文通りお膳お椀を借りられた塚山でした。椀貸山の伝説が残っていました。昭和になって、この塚山は耕地整理した時、兜や太刀が出土しとか、人々はこの地に祠を建て祀っている。

 

 

 

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山際に古墳群、泰澄太師創建の豊原寺、継体天皇ゆかりの地、斉藤実盛ゆかりの地等史跡の多い地域である。

長畝八幡神社と日向神楽

豊原寺跡

女形谷の桜
 
丸岡町女形谷北庄司

椀貸山古墳
 坪江3-6和興(株)敷地内

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   日向神楽は元禄8年(1695)丸岡藩主有馬清純公が日向国(宮崎県)から越後国(新潟県)糸魚川を経て丸岡に来られたときに、延岡から神楽の舞人を同伴し、丸岡城下の諸社祭礼に奉納させたことに由来している。毎年9月の神社の秋祭りに神楽が奉納される。 
                 
県指定文化財(無形民俗)

   豊原寺は大宝2年(702)に泰澄大師によって開かれたとされる寺である。その後発展をとげ、豊原三千坊として勝山の平泉寺に次ぐ越前僧兵の中心的な大きな寺院になっていった。天正2年(1575)一向一揆の本拠地となったため、織田信長によって焼失し、江戸時代に再興したものの、明治時代には再び廃寺となりました。
  
坂井市の指定史跡
         

  女形谷のサクラは県内でも有数のエドヒガンザクラで、主幹は根廻り約10m、樹高15.5mの老木である。毎年4月上旬に薄桃色のきれいな花を満開につけている。
               (女形谷)

    県指定の文化財(天然記念物)

   坪江から中川に至る丘陵地には総数234基の横山古墳群がある。椀貸山(わんかしやま)古墳群はこの横山古墳群の最南端に位置する。全長45mの前方後円墳で、6世紀後半頃のものと考えられる。昔から椀貸山の伝説があり、ここは継体天皇の椀子皇子(まるこのおうじ)の墓と伝えられている。
                        
坂井市の指定史跡

高岳寺(篠岡23-8 高岳寺)

天皇堂
丸岡町女形谷

実盛の館跡(実盛堂)
  丸岡町上長畝

斉藤実盛の池
 
丸岡町長畝36

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   境内の左奥に有馬家の歴代藩主の大五輪の塔が並んでいる。中央は延岡から移された直純、康純の墓である。
    
坂井市の指定史跡

   長畝から山久保集落へ向かう途中の右手の新しい道路を女形谷に向かうと、右手に祠がある。これは、その昔、継体天皇が上京するときに大和からの使者を迎えた接見の場所と云われている。

   長畝の村から大内峠に抜ける道に入り、少し行って左に折れた上長畝の村の中に、斉藤実盛の館跡があり「実盛堂」があります。実盛はここに住んでいた。堂内に仏師新井九郎兵衛作の、実盛の武人像が祀られている。

   伝説では実盛が生まれたときにこの池で産湯を使ったという。歴史書には池の周りは60m深さ10m、2本の大きい松の木2本、その下に石搭が一基との記載がある。                    坂井市の指定史跡

渡辺泉龍碑
     
新江用水を造る

田屋の金毘羅さん

 新善光寺跡
            赤坂白山神社境内

霞の郷温泉
 
丸岡町八ケ郷21−7−1

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  加賀の浪人の渡辺泉龍は丸岡藩主本多成重公の許可を得て、寛政2年(1625)から5年がかりで、田へ水を引く、農業用水工事を行った。 東二ツ屋から山久保に至る新江用水(長さ8km)となった。彼は野中山王の鰐淵家(現 高椋家)に寄宿し、当時の最新技術でもって、荒れ地を開拓し、美田となった。
  現在、直乗院境内にその遺徳をたたえて、石碑が建っている。
坂井市の指定史跡

   丸岡三歌仙の一人、 平章館の和歌教師を長くしていた。恵喜子は国学者として、また、郷土の産業「織物、機業」を切り開いた偉大な女性である。仏教信仰心が厚く、四国に4回に渡り八十八カ所巡りをした。そして、丸岡の人々の福祉にも献身的で、丸岡にも四国新八十八カ所の霊場を開くことを考え、田屋の東方の山を購入し、山頂広場に金比羅社と大師堂(1835年頃完成)を建てて、この山を巡れば四国巡礼と同様の功徳が得られると信じられ、数多くの参詣者で賑わった。坂井市の指定史跡

  白山神社の境内に高さ約1.6mの立石がある。「新善光寺 石垣」「永仁第二天甲午」の語句が確認できる。鎌倉時代に存在した新善光寺という寺の寺域を示す石垣と思われ、文献から、新田義貞公の時代にここに「赤坂新善光寺があったと云われている考えられる。」
                       
坂井市の指定史跡

   平成12年6月に完成した町営の総合福祉保健センターにある温泉施設 カルシウム・ナトリウムー硫酸塩泉(弱アルカリ張性高温泉)
適応症:神経痛・切り傷・やけど・筋肉痛等

  

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たけくらべ山と竹田川の豊かな自然、水に恵まれた、のんびりとした山村の風情が今に残る地域

千古の家

吉谷不動明王

龍ケ鼻ダム

たけくらべ広場

 

   千古の家(坪川家住宅)は桁行14.5m 梁行10.3mの木造建物で、屋根は入母屋造りで茅葺き、妻入り背面は寄せ木造り  構造や手法から江戸初期の頃のものと考えられる。県下最古の民家として貴重な文化財です。
 
国の重要文化財(建造物)

  吉谷寺は天台宗豊原寺とともに繁栄し、滝に打たれて護摩をたいての荒修業は格好の霊場です。現在竹田地区の山中にわずかに観音堂と不動堂のみが残っている。 鉄の鎖にすがって岸壁を登ると、10m余りの岩屋が滝の裏にある。不動明王は秘仏として奥の院に納められている。 
 
坂井市の指定史跡

   竹田川の上流にある多目的ダムで、高さ79.5m 長さ215m 総貯水量10,200,000 立方メートル 昭和63年(1988)に完成。  坂井平野に住む人々の豊かな暮らしを支えている。 
 ダムの周囲には公園や遊歩道等の施設が整備され、四季折々に美しい自然にふれることができる。

   キャンプ場、芝生公園では、軽スポーツ、アスレチック、つり等が楽しめる。隣にはたけくらべ温泉施設もあり、市民の憩いの場所となっている。また、しだれ桜の名所ともなっている

竹田峡谷

丈競山 
 

竹田じょんころ(無形民俗)

 じょんころ広場

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  竹田川は丈競山の東北の加越山地に源を発し、竹田深山の谷水を集めて上竹田橋まで約10kmの峡谷部をなしている。
 これより竹田盆地の水流を集めて、川上橋までの約8kmの峡谷部をなし、その後約27kmの平坦部を曲流して三国に至り,九頭竜川に注いでいる。

  丸岡の東に2つの大きな山がその高さを競っているように見える。山には神聖な神が宿っていると古代の人々は信仰と結びつけて、丈競山の山頂には地蔵様を祀っている。
 南丈競山1065m 北丈競山 964.3m

  竹田地区に古くから伝わる「竹田じょんころ踊り」は旧盆の8月15日,16日の2日間踊られる。山の神に感謝し、平和を祝す安らぎの踊りともいわれる哀調を帯びた節回しで、腰を落としながら身をくねらせて優雅に踊る。
   
坂井市の無形民俗文化財
 

  竹田川の総合開発の一環として造られた龍ケ鼻ダムの周辺は芝生の広場やバーベキュー広場、ダム湖の景観を楽しめるみはらし広場等の施設がある。丈競山登山道の入り口でもある。

参考文献 

越前丸岡の民話と伝説 昭和60年 岩崎新之助著より
郷土誌 昭和6年 柳原縫之助著より
平章教育200周年記念誌 平成17年 平章小学校 

 

丸岡町編

春江町編

坂井町編

三国町編

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