@ 舟寄下町の「地蔵」 民話
昔々 舟寄に「尺田」という家があった。尺田(または澤田)の主人が掘り抜き井戸を掘っていた時のこと、それまで順調だった掘り抜きが、急に掘れなくなったので、掘る場所を1間程横に変えて、再び掘り始めた。しかし、しばらくするとまた掘れなくなった。地中に大きな岩らしいものはなく、おかしいなあと思い調べてみたところ、なんと大きな石地蔵様が横たわっておられた。人々は如何にしようかと思いあぐね、とにかく地蔵様を地面の上まであげ、安置することにした。しかし、堀りあげようとしても、地蔵様は全く動かすことができなかった。仕方なく、地蔵様にお伺いを立てることにした。「ここに安置しましょうか。」と伺っても、「お宮さんに安置しましょうか。」と伺っても、びくとも動かすことができなかった。「では、下町の方にお移ししましょうか。」と伺ったところ、急に軽くなったので、人々は地蔵様の意にかなったのだと勇んで下町へ運びことにした。下町の村端まで来たところ、又重くなり身動きが取れなくなったため、人々はその場所に安置することにした。それが現在の「下町の地蔵様」である。
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A舟寄中横町の「地蔵」 民話
昔々 舟寄の神社の前に「加賀大工」という、それはそれは年を老いた100歳位のおじいさんが住んでいた。このおじいさんが50歳位の頃、米をもらいに隣村まで出かけた帰り道のこと。道の真ん中になんと石仏様が落ちているのを見つけた。おじいさんは「これはこれはもったいない。石仏様を落としていくなんて」と言いながら拾い上げ、荷の重くなるのもいとわず背負って帰った。舟寄区に入り中横町まで来たところ、急に背が重くなり一歩も歩くことができなくなった。仕方なくその場に座り込んで一服して、再び立ち上がろうとしたとき、石仏様があまりに重くて全く身動きできなくなった。おじいさんは「これは石仏様がこの場所に居たいのだろう。」と考え、その場所にこの石仏様をお祀りすることにした。これが現在の舟寄の北東にある 俗に「お薬師様」という地蔵様で、毎年特別に「地蔵祭り」を行っいる。
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B屋号「魚屋」 民話
昔々 舟寄は連日連夜の大雨で川が濁流となり、村人たちは堤防に集まって、不安でたたずをのんでいた。ふと気がつくと、濁流に大きな亀が流され喘いでいるのを見つけた。村人たちは早速その亀を捕らえ、「さあ 酒のさかなにでもしようか。」と言いながら、恩地家に届けることにした。慈悲深い主人は、「可愛そうだから川に放してやってはどうか。」と言うと、亀は大変喜び「これからは舟寄、長崎、称念寺の人を溺れさせることは決してしません。」と約束して、川に帰って行った。その翌日から、恩地の家の軒につるしてある木製の雨具掛けに、毎朝魚が1、2匹掛かり、主人は先日の亀の恩返しと思い喜んで受け取っていた。 ところが次第に欲が出て、一時に多くの獲物を得ようと金属製の雨具掛けと取り替え、翌朝見にいったものの、1匹の魚さえも掛かっていなかった。次の朝も、その次の朝も魚が掛かっていないのを見て、主人はようやく我に返り、欲のたたりを知ったのですが ことは既に遅しだった。
「恩地」の姓 民話
昔々 その昔 舟寄地区に黒坂城があった頃、一向一揆に参戦したある城主が織田信長の軍と戦って利あらず逃れ、やっとのことで舟寄宿場の旅籠屋に逃げ込んだ。城主は旅籠屋の主人に身を隠して欲しいと懇ろにお願いした。主人は「もし露見すれば自分はもちろん一家皆殺しになりかねない」と大変困惑したものの、一平民に低姿勢で頼む城主に、ついに匿うことを決めた。城主の逃走を知った織田軍の捜索は甚だしかったが、遂に城主を発見することができなかった。敵から逃れた城主は宿の主人の度量に大変喜び、お礼としていくらかの土地を与え、この地は恩があると「恩地」の姓を名乗るようにと名字の使用を許したという。
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C「狐の枕」 民話
昔、舟寄の辺りにもキツネが住んでいました。「コン」「コン」村の人々は毎夜、キツネの鳴く声を聞きながらねむりました。「ほら キツネが鳴いている。はよう 寝よ。」子どもを寝かせる時は必ずそう言いました。子どもは床の中でキツネの声が聞こえないように、身をちぢめて眠りました。ある日のこと、村のあるおじいさいが田んぼを耕していた時でした。鍬の先に、ことりと音がしました。「これや、なんじゃろ。」田んぼの水で洗って見ると、それは茶色の焼物か石のような物でした。長さ12〜3cm、太さ3cm位、中に穴が開いていた。「うん これはキツネの枕じゃ、毎晩、コンコン鳴いているキツネの枕だぞ。」おじいちゃんは、家に持ち帰って、近所の人にもキツネの枕だと自慢そうに話しところ、大評判なりました。それから舟寄の田んぼの中から、狐の枕が次々と見つかりました。村人は本当に狐の枕だと信じ切っていました。後にこれをよく調べたところ、狐の枕と思っていた物は、実は魚を捕る時に用いる網のおもりであることが解りました。大昔、坂井平野は大きな入江や湖だった頃、舟寄地区は舟を寄せた所であった。この地方の古代人が網で魚を捕るときに、おもりとして使った焼物が出土したのでした。昔の人々はまさかこんな平地で網のおもりが出てくるとは思っても見なかったことでしょう。今でもこれらのおもりを狐の枕と言い伝えられています。
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D長崎「さらえ橋の怪」 民話
昔々 奥村重兵衛という人がいて、人々は重兵衛さんと呼んでいた。あるとき重兵衛さんが隣村の横地へ用事で出かけた、帰り道のことです。日はとっぷり暮れたものの、少しも怖がる様子もなく、さらえ橋付近にさしかかった。さらえ橋は、昔から人々に怖がられている橋で、両岸には木がこんもり生い茂り、昼でも薄暗い所であった。重兵衛さんが橋に渡ろうとしたとき、前方に身の丈程の竹の棒が立ちはだかり、行く手を遮られた。「これは皆の恐れているむじなの仕業だなあ」と気がつき、すぐ着ていた羽織を脱いで、竹(むじな)の頭に被せて家に持ち帰り、石臼の重石にして置いた。その夜むじなは正体を現して、皆の寝静まった頃「きゃあ きゃあ いてえ いてえ 出して 出して」と叫びはじめた。その家の修繕に来ていた大工が飛び起きたところ、むじなは「もう悪いことはしませんから許してください。」と謝るので、重兵衛さんに伝えたが、重兵衛さんは少しも許す気になれず、大工を疑った。 重兵衛さんはそれでも何度も謝るむじなを見て、とうとう許すことにした。大工も非常に喜んで、むじなに「もう2度と人をだますではないぞ」といって、重い臼石からむじなを放してやった。むじなは大変喜び、頭をぺこぺこ下げてから、重兵衛さんの家を10回回っていってしまったとさ。 現在、さらえ橋の近くにひっそり安置している地蔵はこの民話を物語っている。
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十郷用水に架かるさらえ橋
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さらえ橋地蔵
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E蓮如上人御影道中の御座所
長崎の斉藤家 (伝承)
文明3年(1471)越前に下った蓮如上人は、吉崎山に坊舎を建て北陸布教の拠点とした。一般庶民に受け入れられ、北陸各地より門徒が集まり、後の「浄土真宗王国」の基礎が築かれた。毎年4月23日から10日間 あわら市吉崎では蓮如忌が行われる。この蓮如忌のために、上人の御影像(みえいぞう)が信徒らによって7日間をかけて、京都から陸路で吉崎まで運ばれている。御影道中の一行は蓮如上人の故事が残る場所やゆかりの地(お寺や民家など=御座所)で休憩や宿泊をされている。旧北陸道の長崎地区の斉藤隆夫家は300年以上前からこの御座所を勤めてきた。
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F「明智光秀と薗阿上人」(光秀の寺子屋)
伝説 細川ガラシャ生誕の地 称念寺 明智光秀は美濃の斉藤義龍の大軍に包囲されで、猛烈に攻撃されました。これで最後と思い、甥の光春と共に城に火を放し、暗闇にまぎれて北へ逃れ、油坂峠を越えて、大野の穴馬村まで逃れて潜伏していました。光秀は、北条流の軍学者でその名の識見と抜群の手腕で、その上詩歌管弦の道にも精通していたことから、以前から詩歌に堪能な称念寺の薗阿上人と懇意があり、何度か称念寺を訪ねていた。上人は潜伏していた光秀のことを聞き、ある夜、密かに使いを出して、光秀を長崎に連れ出した。そして、門前に一軒の家を借り、家族で住まわせたのが、1560年頃のことでした。約5年位、寺子屋で付近の子どもや若者の教育に当たったり、薗阿上人と花鳥風月を詠じたりして、清遊の日々を送ったと云われている。 ある時は二人で北潟湖に舟を浮かべ、ある時は山代温泉のお湯に入ったりして、明智は再興のために力を蓄えていたと云われている。 みち瀬のこしてや 洗ふあうがね 土もあらわに根上りの松 この歌は雄島の御島神社の神宮治部大輔の家に泊まって、上人と3人で百韻の連歌を詠じた折、浜坂の汐越の松を詠じたものであり、不遇な当時の心境が表わす作品が残っています。 細川玉 ガラシャ(明智光秀の三女)が生まれたのもこの称念寺である。(明智玉が生まれたのは永禄6年・1563年) 光秀は朝倉氏に仕えようとした事もあったようですが、最後は織田信長に仕えました。 また、光秀の妻・煕子が髪を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残る場所でもある。元禄2年(1689)8月 松尾芭蕉が称念寺に立ち寄った時に、明智光秀の夫婦愛の話を聞き,感激して詠んだ句である。
「月さびよ 明智の妻の 咄せむ」
この句碑は現在,境内にある。 また、
現在、称念寺の門前には明智を名乗る光秀の子孫が住んでいる。
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G称念寺の海運業 伝説
正広3年(1290)時宗(一遍上人が開く)の2代目の他阿真数上人が越前地方を遊行(教えを広めるたびをすること)の際、当地の称念坊が他阿上人をしたって建物を寄進した。末の弟の道性坊は光明院という蔵を寄進し、弟の仏眼坊は私財一切を寄進したと伝えられている。ここでの蔵とは何か?
この時代に三国は日本海側で最も栄えた港でした。坂井平野でとれたお米や産物は九頭龍川や竹田川から舟で三国港へと運ばれた。そして長崎の庄には兵庫川があり、称念寺は長崎河戸から川舟で生活物資を運ぶ運送業を営み、寺の運営資金を稼いでいた。また、時宗のお坊さんは布教するために、日本海側の各地に時宗の念仏道場を建てた。越前地方で最も有力な道場になった称念寺は、三国、富山、新潟県にまでその勢力を伸ばしていたことが当時の大乗院文書からうかがえる。つまり称念寺の経済は海運業にたずさわる人によって支えられていた。光明院の蔵というのは、現在の銀行の役割を果たしていた。(高尾察誠住職より)
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H酬恩講(大坪、赤金地区) 伝統行事
丸岡町大坪地区、赤金地区、四ツ屋地区の3集落には「酬恩講」という講がある。住民たちは大正4年(1915)から現在まで深い思いをもって受け継いでいる。この講は3集落が1年毎の輪番制で、毎年3月7月11月の3回 1日午前と午後の2回に亘って講が開かれる。導師の法話もいただき、ご先祖様のご遺徳とその生涯を偲ばせていただきながら懇ろにお参りしている。この祭壇は右から親鸞聖人、蓮如上人と3集落で亡くなられた方の御法名が書かれた掛け軸が掲げられる。この講は地区民の親睦の場ともなっている。講社ご消息の中には「つらつら思いますに宗祖親鸞聖人御在生の人々 月々相集まって、互いにみ教えを讃嘆し、念仏の喜びに導かれて報謝の生活にいそしんだと伝えられており、これわが宗門における講社」のはじまり大正8年6月と書かれている。 (資料提供 赤金 田中和夫氏)
平成19年7月1日 輪番は大坪集落 舟寄5区ふれあい会館
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布教師は勝山市の法勝寺ご住職様
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Iおちょぼ岩(儀間) 民話
昔 儀間におちよという娘がいた。或る日母親といっしょに山へ薪拾いに出かけたが、しばらくして母親はおちよを見失ってしまった。母親は心配して山深く探し回った。しかし一向に見当たらなかった。昼飯時になっても晩方になっても見当たらなかった。村人総出で探したが、見当たらなかった。一人娘の行方を案じて母親は「おちょぼ おちょぼ」と呼び続けて探し回った。村はずれの岩に腰掛けて、娘を探す声が毎日続いた。遂に母親は娘の名を呼びつづけながら死んでしまった。その後も毎夜村の南端のおちよぼ岩から娘の名を呼ぶ母親の哀音が聞こえてきた。
J舟つなぎ松(牛ヶ島)
民話
牛ヶ島と儀間村のはずれに老松が立っていました。この松を村の人は舟つなぎ松と呼んでいました。むかし、まだ、この辺り一帯は湖だった頃、この場所が舟をつなぐ港であった。その名残の松も幾度となく植えかえて、今(昭和54年現在)の老松は何代目なのでしょうか。平成の今日、その松はどこにあるのか、その跡形も見当たらない。
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K 消えた花嫁(笹和田) 民話
晩秋の夕暮れ時の頃、或る家の主人が町で買った油揚げを抱えて帰りを急いでいた。ちょうど本廟の八幡様の横にさしかかったとき、これはまた絶世の美人がどこからともなく現れた。身には金糸銀糸を織りなした衣装をまとい、頭には可愛い初島田を結い、誠に初々しい花嫁姿であったが、腕に赤子抱いていた。女性はなれなれしく近よって来て「ちょっと すみませんがこの子を背負わせて下さい」といった。そこで主人は持っていた油揚げを下に置き、赤子をうけとって、さてそれではと女性の背にあてた。ところが美人はどこへやら影も形もなく 不思議なぁ おかしいと我を疑った。それにしてもこの子をどうしょうかとよくよくその子を見ると、それは石と化していた。どうなったのかなと思い、その石を地面にほおり投げて、さて油揚げ取り上げようとしたが、どこにも見当たらなかった。さては、キツネの仕業かな
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L本廟の「初音の松」 伝説
昔々 本廟(笹和田)の八幡宮の境内は大木や竹笹が繁茂し、昼でも薄暗い森でした。その森には小鳥たちが集まり、美しいさえずりが聞こえていた。神社の中央には小さな祠があり、その直ぐ近くには大きな松が一本生えていて、遠くからでも大変目立つ高い木でした。村人たちは神木として崇めていた。ある年の春まだ浅い頃、丸岡藩の殿様からおふれが出た「城下で春一番早くウグイスが啼く所を知らせるがよい」「一番早く啼く所には褒美を出すぞ」それを知った各在所の人たちは一番乗りのウグイスの声を探しまわっていた。丁度殿様が本廟の辺りをお通りなさった時のこと。それはそれはとてもきれいなウグイスの鳴き声を耳にした。耳を傾けると、それは本廟の高い松の木から聞こえてきた。殿様はその美しい声に聞き惚れ、これぞ初音のウグイスじゃと褒美を授けたそうだ。その賞状はケヤキ板の賞状で、今も笹和田神社に残されている。賞を頂いてから本廟の松の木は「初音の松」、神社の森を「初音林」と呼ばれるようになった。村人たちはこの松の木を大切にしながら何代も受け継いでいった。昭和中期の耕地整理の時もこの松だけを残して、神社境内が整備された。しかし、平成期に入りこの松も樹齢100年以上となり一段と大きく高くなり、台風時に倒れる恐れがあることから、平成17年に神主さんにお払いしてもらって伐採した。現在は伐採された幹の空洞を利用した花壇となって「初音の松」を偲んでいる
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M一本田観音院の涅槃団子 伝承行事
曹洞宗の寺院では,三佛忌と云われるお釈迦さまの誕生会(4月8日)成道会(12月8日),涅槃会(2月15日または3月15日)が行われている。元々曹洞宗永平寺の分院であった一本田観音院では,毎年3月
15日に涅槃会が行われる。3月に入ると当番に当たる班員の方々が中心になり,団子に用いる米を地区内から集めて,それを4色の団子にして千手観音さまにお供えしている。そのお下がりの団子は観音堂にて団子撒きをしたり,地区住民に配られたりしている。 古くから,この団子を食べると無病息災の御利益があると言い伝えられ,現在もこの伝統行事が伝承されている。
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N 西里丸岡の集団移住 伝説 (丸岡村の移転 高畑への移住)
丸岡城築城の頃までの西里丸岡の元の住民は、現在の国神神社付近に住んでいた。それは丸岡村という大きな集落でしたが、天正4年(1578)に築城されると城下町の建設で、そこの住民は東と西に移住させられた。東側を東里、西側を西里となった。慶長3年(1598)の太閤検地の時は西里丸岡村(310石)として独立してしたが、1606年の越前国絵図では一本田村の一部として記されている。当初は一本田村の枝村として成立し以後の貞享2年(1685)の山田o一家文書では独立村として記されている。西里丸岡村の位置は現在の場所の東南部に位置する「古屋敷」(15字)であった。古屋敷は水利の便は良いが、村の北に広がっている耕地は田仕事には不便であった。しかも田島川の排水が悪く、雨が続くと土地が水浸しになることから、文化4年〜10年(1813)に集落地籍のほぼ中央に「高畑」と呼ぶ一面小高い畑地に集団移住を行っている。新しい村は南北に道路を挟んで両側に家を建てた。道路の東側の家は東方と呼び、西側を西方と呼んだ。現在の6字を東形 5字を西形とよぶ字名はここからきている。西里丸岡は天保9年(1838)には戸数11戸 人数26 馬2頭となっている。
吉田哲著 藩政時代の百姓より
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O赤江橋の地蔵堂 民話
現在の旧国道はきれいに舗装されているが昔はお粗末なものであつた。高柳と吉政地区の境の赤江橋付近は、雑木林が生い茂り、追いはぎが出没し通行人を悩ませた。安政6年(1859)のこと、近くに住む娘が親戚へ使いに行く途中、橋のそばで追いはぎに殺された。両親はここに地蔵堂をたてて、娘の冥福を祈った。その地蔵は現在も赤江橋詰にある。
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P赤江(赤江橋)の由来
平成18年(2006)に平城京右京一条三坊八坪(現奈良市西大寺本町)の発掘調査で奈良時代後半頃の越前国に関わる木簡「西大寺赤江南庄黒米五斗吉万呂 延暦十一年六月十五日」他が発掘された。これは792年,西大寺領赤江庄という荘園から黒米五斗が貢進物として献上されたことを示す荷札である。当時西大寺領荘園の赤江庄は赤江南庄と赤江北庄の二つに分かれて経営され,福井市上野本町から丸岡南部の高柳や吉政一帯に広がっていたと考えられる。木簡には赤江郷戸主に秦赤麻呂の名前もあり,現在の高柳に小字赤江橋,吉政に小字赤井橋(赤江の転訛)があり,また兵庫川に架かる橋を通称「赤江橋」と呼ばれていることから,「赤江」は遠く奈良時代の西大寺領越前国赤江庄や秦赤麻呂に由来すると考えられる。
(参考文献 舘野和己氏論文,平成22年3月 福井県文書館)
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Q牛ノ島と吉政 吉政は昔「牛ノ島」と呼んでいた。慶長3年(1598)に行われた太閤検地の丸岡領村々水帳(春江町正蓮花吉沢康正家文書)には牛ノ島村 高720石8斗 免3ツ58 分米621石8斗8升 田方37町1反8畝 畑方6町4反9畝3歩 とあり,隣りにある牛ケ島村との混同を避けるために,後に牛ノ島は「吉政」と呼ぶようになった。その年代は明確ではないが,天保9年(1838)3月の丸岡藩高免牛馬男女かまど数改帳(野中山王高椋節夫家文書)には「牛ノ島事吉政」と書かれている。内容は高728石8斗 免3ツ5歩5厘 かまど22軒 馬6疋 男女83人であった。 「牛ノ島」が行政上正式に「吉政」と呼ぶようになったのは,丸岡史によると明治10年(1877)頃である。明治7年頃から町村の分合や改称が引き続いた頃である。
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R牛ノ島と諏訪神社 御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りしている。この神社の屋敷を諏訪屋敷といい,昭和期の耕地整理前までは兵庫川の川淵にあった。ここから下が兵庫川と云われて,川幅の広い川岸には柳の木が生い繁っていた。この柳を切ると中心部が真っ赤な血のような色をしていた。また諏訪神社付近の田んぼから穫れた稲藁はお産の時に敷くと安産になると云われていた。
S牛ノ島の地名の由来 5世紀の頃,近江国高島郡三尾の彦主人王(ひこうしおう)が振媛を見初めて,遙々近江の国から高向(現在の丸岡町高田地区)に来られた時,兵庫川の川船で吉政河戸から上陸されたと云われ,この地区の古い地区名「牛ノ島」はこの「ひこうしのおう」から由来する。牛ヶ島の集落名の由来も同じような理由からであろう。
資料提供 一本田中区 牧田正太郎氏
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