【 中根 雪江 】   なかね せっこう   1807〜1877


文化4(1807)生まれ。福井藩士・中根衆諧の長男。寄合席、禄700石。本名は栄太郎・師質(モロカタ)通称は靫負、雪江・拘堂と号し、後年雪江を通称ともする。

弘化3以降、松平慶永の側用人として慶永を補佐し、強力な藩政改革を企画・断行する。


黒船来航後、対米条約問題・将軍継嗣問題解決のため、奔走するが失敗、慶永隠居急度慎に処せられる。

文久2慶永の政権復帰後は、公武合体・公議政体派として、慶永を擁して縦横に活動、朝幕・諸藩の有志から信望を集める。

維新後は参与に任ぜられるが、明治元年8月福井に閑居する。また平田篤胤の門人として国学を学び『昨夢記事』『奉答記事』など一連の史書の著者としても著名である。

明治10(1877)歿、71歳。