赤江庄と献上米
平成18年(2006)に平城京右京一条三坊八坪(現奈良市西大寺本町)の発掘調査で奈良時代後半頃の越前国に関わる木簡「西大赤江南庄黒米五斗吉万呂 延暦十一年六月十五日」他が西大寺食堂院跡の古井戸から発掘された。これは792年,西大寺領赤江庄という荘園から黒米五斗が貢進物として献上されたことを示す荷札である。当時西大寺領荘園の赤江庄は赤江南庄と赤江北庄の二つに分かれて経営され,福井市上野本町から丸岡南部の高柳や吉政一帯に広がっていたと考えられる。木簡には赤江郷戸主に秦赤麻呂の名前もあり,現在の高柳に小字赤江橋,吉政に小字赤井橋(赤江の転訛)があり,また兵庫川に架かる橋を通称「赤江橋」と呼ばれていることから,「赤江」は遠く奈良時代の西大寺領越前国赤江庄や秦赤麻呂に由来すると考えられる。